面倒な事もありましたが、可愛がって育てていたので悲しいです。
クーが生まれた時、
「人を育てるのは犬猫と違うから大変そうだね」
と言われたことがあります。
その頃既に猫子と10年近くの付き合いだったし、
私が辛い思いをしていた頃そばにいてくれた犬は16年生きました。
種族関係なく、犬も猫も人も「家族」という括りで愛しく大切にしていた私にとって、上記の言葉は衝撃でした。
正直、傍にいて「より愛しさを感じる」、死んでしまったら「より悲しいと感じた」といったことはあります。
でもそれは種族差からではなく、それまでやその時の関係からきたものです。
そして私が母から教わった「亡くなったものへの後悔は消えることが無い」という思いは
体が思うように動かなくても行きたいと願っていたから。そして私が母から教わった「亡くなったものへの後悔は消えることが無い」という思いは
犬や猫の「家族」に対してもいえるのだと知っています。
思い出す頻度は減っても、自分が死ぬまで思い出した時の胸の痛みは、きっと変わらない。
だから16年生きた犬の最期の頃、散歩の途中で歩けなくなり、
私が抱えて運ばなければならないのをわかっていても散歩に連れて行ってあげていました。
15キロある犬で大変でしたが、散歩が大好きで、思い出す頻度は減っても、自分が死ぬまで思い出した時の胸の痛みは、きっと変わらない。
だから16年生きた犬の最期の頃、散歩の途中で歩けなくなり、
私が抱えて運ばなければならないのをわかっていても散歩に連れて行ってあげていました。
願いを叶えなかったら、先々まで後悔するとわかっていたから。
猫子にも、最期の日までできる限りのことをする覚悟でいます。
それほどに犬や猫を大切にしてきた私には、
猫や犬の命を貶めるような言葉に同意することはできなかった。
ザリガニとカブトムシが死んでしまった時、
「もう付き合いが無くなって聞けないけれど
ザリガニやカブトムシが死んでも悲しいと思う気持ちを、今は分かってくれるだろうか?」
と考えてしまいました。
ここまで「命を持つもの」の事ばかり書きましたが、「大切なもの」という括りでいうと、
「ゲームのセーブデータが、物凄く大切」
「幼少から集めた本やフィギュアが大事」
という人もいるかもしれません。
本当に、人によって何に価値を見出すかはそれぞれ。
犯罪であったり、人を悲しませたりしない限り、何を大切にするのも自由です。
何が誰にとって、どれ程に大切なものか分からない。大切になるかもわからない。
だから「命がある・なし」関係なく、どんなものも軽んじたりすることなく大切にしなくてはいけない。
コップだって、鉛筆だってアメンボだって。
クーにも、そう思ってもらえる人になって欲しいです。
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